2008年05月29日
NYからLAまで大陸横断バスの旅その4 LA到着
1981年3月20日、ラスベガスを出発してロスアンジェルスに向かって大陸横断
バスにのっています。
ラスベガスからLAまでの道路は、左右見渡すかぎり砂漠、まっすぐの道路という
ところもあります。
そういえば、昔日本テレビで毎年8月にアメリカ横断ウルトラクイズという番組を
やっていたのを思いだしました。当時のクイズ番組としては、スケールの大きさでは
他にはできないおおがかりなクイズ番組でした。
毎年、1万人位の一般の方がウルトラクイズに参加したんではないでしょうか。
パスポートと旅行かばんを持って、後楽園球場に集合。○×クイズをやりながら人数を
減らして行き、100人に絞り込みます。100人は羽田空港(成田だったかなあ)まで
バスで連れてゆかれ(バスの中でもテスト)、半分は空港でさよなら、残り半分は
グアムまで連れていってもらえます。
飛行機の中でも筆記テストがあり、成績の悪かった人はグアムの地をふむことなく
日本に帰される、という過酷なクイズ番組でした。
グアムからハワイ、そしてアメリカ本土にゆき、少しずつ人数が減ってゆき、最後は
NYの自由の女神で決勝、優勝者にはすばらしい賞品がもらえる(テキサスの油田、
とか・・)という番組でした。
アメリカにあるデスバレー(死の谷)という名前を知ったのは、アメリカ横断ウルトラ
クイズのおかげでした。
灼熱の太陽が照りつけ、サボテンとスコーピオンしかいないような砂漠でクイズを
やるとは、なんて過酷な番組だろうと思いました。
そのような砂漠を突き抜け、その先にはLAの大都市が見えてきました。
LAのバスターミナルに到着し、この先11日間はLAに滞在しながらいろんなところ
を見て回ります。
NYと同様、LAでもホテルはキッチン付きウィークリーにしました。1週間で70ドル
というホテル代でした。
次回は、LAでの出来事について詳しくお話しします。
バスにのっています。
ラスベガスからLAまでの道路は、左右見渡すかぎり砂漠、まっすぐの道路という
ところもあります。
そういえば、昔日本テレビで毎年8月にアメリカ横断ウルトラクイズという番組を
やっていたのを思いだしました。当時のクイズ番組としては、スケールの大きさでは
他にはできないおおがかりなクイズ番組でした。
毎年、1万人位の一般の方がウルトラクイズに参加したんではないでしょうか。
パスポートと旅行かばんを持って、後楽園球場に集合。○×クイズをやりながら人数を
減らして行き、100人に絞り込みます。100人は羽田空港(成田だったかなあ)まで
バスで連れてゆかれ(バスの中でもテスト)、半分は空港でさよなら、残り半分は
グアムまで連れていってもらえます。
飛行機の中でも筆記テストがあり、成績の悪かった人はグアムの地をふむことなく
日本に帰される、という過酷なクイズ番組でした。
グアムからハワイ、そしてアメリカ本土にゆき、少しずつ人数が減ってゆき、最後は
NYの自由の女神で決勝、優勝者にはすばらしい賞品がもらえる(テキサスの油田、
とか・・)という番組でした。
アメリカにあるデスバレー(死の谷)という名前を知ったのは、アメリカ横断ウルトラ
クイズのおかげでした。
灼熱の太陽が照りつけ、サボテンとスコーピオンしかいないような砂漠でクイズを
やるとは、なんて過酷な番組だろうと思いました。
そのような砂漠を突き抜け、その先にはLAの大都市が見えてきました。
LAのバスターミナルに到着し、この先11日間はLAに滞在しながらいろんなところ
を見て回ります。
NYと同様、LAでもホテルはキッチン付きウィークリーにしました。1週間で70ドル
というホテル代でした。
次回は、LAでの出来事について詳しくお話しします。
2008年05月29日
NYからLAまでバスの旅~その3ラスベガス
1981年3月19日、夕方のバスでアリゾナ州フラッグスタッフを出発してLAに向かいました。
16日にNYを出発してからずっとバスで移動、その上フラッグスタッフからグランドキャニオンの
ヒッチハイクで大分疲れがピークに・・。
そこで、当初の予定にはありませんでしたがラスベガスで1泊することにしました。ラスベガスは
ご存知の通りギャンブルの町ですから、ホテル代や食事が安いんです。その分ギャンブルで使って
もらえば良い、という考えです。
こっちはギャンブルが目的ではありませんが、安く宿泊できるのでありがたいことです。
名前は忘れましたが、カジノがついたホテルに宿泊、1泊4ドルくらいだったように記憶しています。
シャワーを浴び、翌朝までグッスリ休みました。
3月20日、朝起きてホテルのカフェで朝食。スクランブルエッグ、カリカリのベーコン、ポテト、トースト。
そしてうすいコーヒーをいただきました。
ラスベガスからLAまでは、バスで4,5時間かかるくらいの距離です。お昼前にラスベガスを出発して
LAに向かいます。
16日にNYを出発してからずっとバスで移動、その上フラッグスタッフからグランドキャニオンの
ヒッチハイクで大分疲れがピークに・・。
そこで、当初の予定にはありませんでしたがラスベガスで1泊することにしました。ラスベガスは
ご存知の通りギャンブルの町ですから、ホテル代や食事が安いんです。その分ギャンブルで使って
もらえば良い、という考えです。
こっちはギャンブルが目的ではありませんが、安く宿泊できるのでありがたいことです。
名前は忘れましたが、カジノがついたホテルに宿泊、1泊4ドルくらいだったように記憶しています。
シャワーを浴び、翌朝までグッスリ休みました。
3月20日、朝起きてホテルのカフェで朝食。スクランブルエッグ、カリカリのベーコン、ポテト、トースト。
そしてうすいコーヒーをいただきました。
ラスベガスからLAまでは、バスで4,5時間かかるくらいの距離です。お昼前にラスベガスを出発して
LAに向かいます。
2008年05月26日
NYからLAまでバスの旅 その2
3月17日の午後、セントルイスを発って次に向かうのはアリゾナ州のフラッグスタッフという町です。
セントルイスからバスで30時間ほど、19日の早朝5時前にフラッグスタッフに到着しました。フラッグ
スタッフからグランドキャニオンまでは車で1時間くらいの距離にあります。
NYからLAまでは、NYのバスターミナルで出会ったスウェーデン人の男子学生(スティーブ)と一緒の
旅です。
彼の提案で、グランドキャニオンへ向かう方面の大通りでヒッチハイクをすることにしました。
交通量もかなり多いし、キャデラックのようなアメリカ車ならバックパックの若者2人を乗せてもゆったり
しているのですぐに乗せてくれる車は見つかるだろうと気軽に考えていましたが、なかなかとまって
もらえません。
朝5時から3時間、グランドキャニオンで地層の調査をしている方がわれわれをトラックでグランドキャニ
オンまで乗せていってくれました。
グランドキャニオンにはなんとか着いたものの、心配は帰りのヒッチハイク。普通のツアーに途中から
参加、というわけにもゆかず、なんとか明るいうちにフラッグスタッフに戻らなければなりません。
グランドキャニオンの見学はそこそこに、帰りのヒッチハイクを11時から始めました。
行きと同様、なかなかとまってくれませんが、午後1時過ぎ日本製の軽自動車にのった老夫婦が止まって
くれました。
我々2人は軽自動車の後部座席でバックパックをかかえながら、頭を横にねじってフラッグスタッフに
たどり着きました。
あてにしていた大きな車のアメリカ人は我々には見向きもせず、助けてくれたのは軽自動車の老夫婦
や仕事に行くトラックの方たちなどさほど裕福ではない方たちでした。
アメリカ人のやさしさと冷たさを実感できた一日でした。
フラッグスタッフについて、老夫婦にお礼をいい、カフェで遅いランチを食べたのは3時頃でした。朝から
何も食べていなかったので、このときの安ど感は忘れられません。
セントルイスからバスで30時間ほど、19日の早朝5時前にフラッグスタッフに到着しました。フラッグ
スタッフからグランドキャニオンまでは車で1時間くらいの距離にあります。
NYからLAまでは、NYのバスターミナルで出会ったスウェーデン人の男子学生(スティーブ)と一緒の
旅です。
彼の提案で、グランドキャニオンへ向かう方面の大通りでヒッチハイクをすることにしました。
交通量もかなり多いし、キャデラックのようなアメリカ車ならバックパックの若者2人を乗せてもゆったり
しているのですぐに乗せてくれる車は見つかるだろうと気軽に考えていましたが、なかなかとまって
もらえません。
朝5時から3時間、グランドキャニオンで地層の調査をしている方がわれわれをトラックでグランドキャニ
オンまで乗せていってくれました。
グランドキャニオンにはなんとか着いたものの、心配は帰りのヒッチハイク。普通のツアーに途中から
参加、というわけにもゆかず、なんとか明るいうちにフラッグスタッフに戻らなければなりません。
グランドキャニオンの見学はそこそこに、帰りのヒッチハイクを11時から始めました。
行きと同様、なかなかとまってくれませんが、午後1時過ぎ日本製の軽自動車にのった老夫婦が止まって
くれました。
我々2人は軽自動車の後部座席でバックパックをかかえながら、頭を横にねじってフラッグスタッフに
たどり着きました。
あてにしていた大きな車のアメリカ人は我々には見向きもせず、助けてくれたのは軽自動車の老夫婦
や仕事に行くトラックの方たちなどさほど裕福ではない方たちでした。
アメリカ人のやさしさと冷たさを実感できた一日でした。
フラッグスタッフについて、老夫婦にお礼をいい、カフェで遅いランチを食べたのは3時頃でした。朝から
何も食べていなかったので、このときの安ど感は忘れられません。
2008年05月23日
ニューヨークからLAまでバスの旅
1981年2月15日から50日間、アメリカ中をバスで旅した記録を書いています。
3月2日から2週間、ニューヨークで過ごしたことはニューヨーク滞在記として別に
まとめます。
3月16日にニューヨークを発ち、5~6日間かけてロスアンゼルスに向かいます。
今でもあるかわかりませんが、旅行者向けの格安パスがあってアメリカ国内の2都市
を最短距離で行けば途中下車は何度でもOKでした。
東海岸のニューヨークから西海岸のLAまでバスに乗り続けても72時間かかります。
まずは、セントルイスまでほぼ1日かけて移動です。ちょうど、NYのバスターミナルで
スエーデンから来ている同い年の青年と出会い、LAまで一緒に行動することにしまし
た。
まる1日バスに揺られ、翌3月17日の朝、セントルイスに到着しました。
西部開拓時代、セントルイスは西部への出発地点として栄えたところだそうです。
ミシシッピ川のたもとに、大きなアーチ状のタワーがあったのを覚えています。
マクドナルドのMのマークを半分にしたような大きなアーチで、中を上まで登ることが
できました。
たぶん、このアーチが西部への出発地点、という意味があったのではないかと
思います。
また、トムソーヤの冒険は、作者のマークトウェインがセントルイス近郊ですごした
少年時代がベースになっており、ミシシッピ川にはマークトウェイン号という蒸気船
が走っていました。
まさに、古き良きアメリカがここにあります。
ミシシッピ川のほとりでのんびり過ごし、次なる都市にむけてバスで出発しました。
大きな地図で見る
3月2日から2週間、ニューヨークで過ごしたことはニューヨーク滞在記として別に
まとめます。
3月16日にニューヨークを発ち、5~6日間かけてロスアンゼルスに向かいます。
今でもあるかわかりませんが、旅行者向けの格安パスがあってアメリカ国内の2都市
を最短距離で行けば途中下車は何度でもOKでした。
東海岸のニューヨークから西海岸のLAまでバスに乗り続けても72時間かかります。
まずは、セントルイスまでほぼ1日かけて移動です。ちょうど、NYのバスターミナルで
スエーデンから来ている同い年の青年と出会い、LAまで一緒に行動することにしまし
た。
まる1日バスに揺られ、翌3月17日の朝、セントルイスに到着しました。
西部開拓時代、セントルイスは西部への出発地点として栄えたところだそうです。
ミシシッピ川のたもとに、大きなアーチ状のタワーがあったのを覚えています。
マクドナルドのMのマークを半分にしたような大きなアーチで、中を上まで登ることが
できました。
たぶん、このアーチが西部への出発地点、という意味があったのではないかと
思います。
また、トムソーヤの冒険は、作者のマークトウェインがセントルイス近郊ですごした
少年時代がベースになっており、ミシシッピ川にはマークトウェイン号という蒸気船
が走っていました。
まさに、古き良きアメリカがここにあります。
ミシシッピ川のほとりでのんびり過ごし、次なる都市にむけてバスで出発しました。
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2008年05月20日
NYで2週間、その1
1981年3月2日、ニューヨークのマンハッタンに到着しました。
何回かに分けて、私が感じたニューヨークについてお話しします。
他の都市に住むアメリカ人にとってもニューヨークは別の国のような特別
な場所です。
マンフハッタンという狭い島に多くのビルが立ち並んでいますので、ホテル
の宿泊代も他の都市とは比べ物にならない高さです。
1泊単位では高すぎるので、ウィークリーで泊まれるホテルを探し、2週間
そこを拠点にしてマンハッタンを歩きまわりました。
私が泊まったホテルは、確か9番街か10番街、30~40丁目のどこかに
ありました。
5番街はマンハッタンの真ん中を通っていますので、9番街か10番街は
西側、つまりウエストサイドになります。
まさに、ウエストサイドストーリーに出てくるような倉庫街のような場所に
ホテルはありました。1週間で100ドル位の宿泊代だったと思います。
1日あたり15ドルなのでなんとか支払える料金です。
マンハッタンでの交通手段はバスか地下鉄が便利です。トークンと呼ばれる
メダルを買い(1こ75セントでした)、1トークンで1回バスや地下鉄に乗れる
という仕組みになっています。
当時、ニューヨークの地下鉄は落書きと汚さが有名でした。駅のホームも薄暗く
最初に乗るときは勇気が要りましたが、慣れてしまえば、どうってことはありま
せん。行き先さえ間違えなければ、こわくはありません。
地下鉄より、多少時間はかかりますがバスを利用すれば街中の景色を見ながら
移動できるので、バスでの移動をおすすめします。
バスを降りたいときは、バスの壁面にあるロープを引っ張るとチャイムがなります。
次のバスストップでトークンを入れてバスを降りるだけなので簡単です。
何回かに分けて、私が感じたニューヨークについてお話しします。
他の都市に住むアメリカ人にとってもニューヨークは別の国のような特別
な場所です。
マンフハッタンという狭い島に多くのビルが立ち並んでいますので、ホテル
の宿泊代も他の都市とは比べ物にならない高さです。
1泊単位では高すぎるので、ウィークリーで泊まれるホテルを探し、2週間
そこを拠点にしてマンハッタンを歩きまわりました。
私が泊まったホテルは、確か9番街か10番街、30~40丁目のどこかに
ありました。
5番街はマンハッタンの真ん中を通っていますので、9番街か10番街は
西側、つまりウエストサイドになります。
まさに、ウエストサイドストーリーに出てくるような倉庫街のような場所に
ホテルはありました。1週間で100ドル位の宿泊代だったと思います。
1日あたり15ドルなのでなんとか支払える料金です。
マンハッタンでの交通手段はバスか地下鉄が便利です。トークンと呼ばれる
メダルを買い(1こ75セントでした)、1トークンで1回バスや地下鉄に乗れる
という仕組みになっています。
当時、ニューヨークの地下鉄は落書きと汚さが有名でした。駅のホームも薄暗く
最初に乗るときは勇気が要りましたが、慣れてしまえば、どうってことはありま
せん。行き先さえ間違えなければ、こわくはありません。
地下鉄より、多少時間はかかりますがバスを利用すれば街中の景色を見ながら
移動できるので、バスでの移動をおすすめします。
バスを降りたいときは、バスの壁面にあるロープを引っ張るとチャイムがなります。
次のバスストップでトークンを入れてバスを降りるだけなので簡単です。
2008年04月30日
アメリカ貧乏旅行15、16日め ボストン
1981年2月28日、夜ニューヨーク州バッファローを出て翌朝マサチューセツ州
ボストンに到着しました。
ボストンは、ご存知の通りアメリカが独立をした由緒ある都市です。ボストンティー
パーティ事件がそのきっかけになりました。
ボストンの街並みは、ヨーロッパのような石畳で落ち着いた都市です。市街地のカフェ
では、良い身なりをした紳士がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいます。他の都市
ではあまり目にしなかった光景です。やはり、ボストンは他とは違います。
観光案内で観光マップをもらい、市内を見て回りました。道路に線が引かれていて、
その線に沿ってあるけば一通り歴史的な建物を見て回れるようになっていました。
世界史をちゃんと勉強してこなかったため、史跡を見て回ってもたいした感動はありま
せんが、夕方オイスターバーで食べた生ガキはおいしかったという思い出があります。
この日は、中心地にあるYMCAに宿泊しました。部屋をシェアして宿泊しますが、
オーランドのホテルのような危険さは感じませんでした。
翌日、3月2日は朝ボストンを発っていよいよ旅の前半の目的地であるニューヨークに
向かいます。ボストンからニューヨークはバスで4~5時間の距離です。
お昼過ぎに、バスはマンハッタンに通じる橋を渡り、映画やTVでよく見かけるあのNY
にいよいよ到着しました。
2月16日にサンフランシスコを出発しアメリカ南部をぐるっと回って15日間、グレイハウンド
バスは15日間乗り放題のクーポンですので、今日3月2日が有効期限です。何とか
予定通りNYまでたどり着きました。
今回の旅で一番楽しみにしていたのは、NYです。50日間の旅のうち2週間はNYで過ごす
予定で計画を組んでいました。
次回より、しばらくはニューヨークの見所をランダムにご紹介してゆきます。
ボストンに到着しました。
ボストンは、ご存知の通りアメリカが独立をした由緒ある都市です。ボストンティー
パーティ事件がそのきっかけになりました。
ボストンの街並みは、ヨーロッパのような石畳で落ち着いた都市です。市街地のカフェ
では、良い身なりをした紳士がコーヒーを飲みながら新聞を読んでいます。他の都市
ではあまり目にしなかった光景です。やはり、ボストンは他とは違います。
観光案内で観光マップをもらい、市内を見て回りました。道路に線が引かれていて、
その線に沿ってあるけば一通り歴史的な建物を見て回れるようになっていました。
世界史をちゃんと勉強してこなかったため、史跡を見て回ってもたいした感動はありま
せんが、夕方オイスターバーで食べた生ガキはおいしかったという思い出があります。
この日は、中心地にあるYMCAに宿泊しました。部屋をシェアして宿泊しますが、
オーランドのホテルのような危険さは感じませんでした。
翌日、3月2日は朝ボストンを発っていよいよ旅の前半の目的地であるニューヨークに
向かいます。ボストンからニューヨークはバスで4~5時間の距離です。
お昼過ぎに、バスはマンハッタンに通じる橋を渡り、映画やTVでよく見かけるあのNY
にいよいよ到着しました。
2月16日にサンフランシスコを出発しアメリカ南部をぐるっと回って15日間、グレイハウンド
バスは15日間乗り放題のクーポンですので、今日3月2日が有効期限です。何とか
予定通りNYまでたどり着きました。
今回の旅で一番楽しみにしていたのは、NYです。50日間の旅のうち2週間はNYで過ごす
予定で計画を組んでいました。
次回より、しばらくはニューヨークの見所をランダムにご紹介してゆきます。
2008年04月09日
アメリカ貧乏旅行14日目、真冬のナイアガラ
1981年2月28日早朝、ニューヨーク州バッファローに到着しました。
アメリカの五大湖のエリー湖とオンタリオ湖の間にナイアガラの滝があります。
バッファローから路線バスに乗り、ナイアガラの滝を見に行きました。
ここは、アメリカとカナダの国境付近ですので、2月末でも猛烈な寒さでした。
つい数日前までアメリカ南部(テキサスやフロリダ)の温かさに慣れていましたので、
大した防寒具を持たずナイアガラの滝に来てしまいました。
この日、ナイアガラの滝を見物に来た観光客は、私の知る限り総勢5名、でした。
私のほかに日本人男子学生2名と、オーストラリアから来たという女子学生2名。
ナイアガラの滝を見下ろせるタワーに上りましたが、みやげもの屋さんは休みで
閑散としていました。
ナイアガラの滝はアメリカ滝とカナダ滝があり、国境を渡ってカナダ側からも滝を
見ました(カナダ滝の方が大きい)。と言っても、実は滝は凍っていて豪快な水しぶき
はこの時期見ることはできません。
もし、ナイアガラの滝に行きたいのであれば、春から秋に行くことを強くオススメします。
冬にナイアガラの滝を見ても笑い話にしかなりませんので・・。
バッファローの市街地に路線バスで戻り、次の目的地マサチューセツ州のボストン
に出発です。
続く
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アメリカの五大湖のエリー湖とオンタリオ湖の間にナイアガラの滝があります。
バッファローから路線バスに乗り、ナイアガラの滝を見に行きました。
ここは、アメリカとカナダの国境付近ですので、2月末でも猛烈な寒さでした。
つい数日前までアメリカ南部(テキサスやフロリダ)の温かさに慣れていましたので、
大した防寒具を持たずナイアガラの滝に来てしまいました。
この日、ナイアガラの滝を見物に来た観光客は、私の知る限り総勢5名、でした。
私のほかに日本人男子学生2名と、オーストラリアから来たという女子学生2名。
ナイアガラの滝を見下ろせるタワーに上りましたが、みやげもの屋さんは休みで
閑散としていました。
ナイアガラの滝はアメリカ滝とカナダ滝があり、国境を渡ってカナダ側からも滝を
見ました(カナダ滝の方が大きい)。と言っても、実は滝は凍っていて豪快な水しぶき
はこの時期見ることはできません。
もし、ナイアガラの滝に行きたいのであれば、春から秋に行くことを強くオススメします。
冬にナイアガラの滝を見ても笑い話にしかなりませんので・・。
バッファローの市街地に路線バスで戻り、次の目的地マサチューセツ州のボストン
に出発です。
続く
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2008年04月07日
アメリカ貧乏旅行13日目、スミソニアン博物館
1981年2月27日、アメリカ滞在13日めになりました。昨日はワシントンDCのホテルに
泊まり、今日も一日ワシントン見物です。
ワシントンDCは、アメリカの首都ですから博物館もいろいろあります。なかでもDCにきたら
ぜひ行ってみたいのが、スミソニアン博物館です。
スミソニアン博物館は、いろんな博物館の総称ですが、一番有名なのは航空宇宙博物館
です。
ここには、第二次世界大戦で活躍した日本のゼロ戦や月面に着陸したアポロなども展示
されています。
最近では、広島に原爆を落とした「エノラゲイ」を展示するかどうかが大きな話題となった
ところです。航空宇宙博物館を見るだけでも、結構時間がかかります。
この日は半日以上、スミソニアン博物館を見て回りました。
夜、ワシントンDCのバスディーポから、夜行バスで次の目的地であるニューヨーク州の
バッファローに向かいました。
バスは途中何度か休憩しながら目的地に向かいます。バスの出入口は前方にあり、この日
は一番後方の席に座っていました。
夜中、バスは短い休憩のため、ある町で停まりました。ほとんどの乗客が降りたあと私も
いったんバスを降りました。
この時バスには運転手以外誰もいなかったので、自分の座席にカメラを置いてバスを降りました。
一番後ろの席だし、早く戻ってくれば誰も私のカメラのことはわからない、と安心したのが不覚で
した。
バスの乗車時間になり、誰よりも早くバスに戻ったのに、座席においておいたカメラはどこかに
いってしまいました。
そのカメラは、アメリカ旅行に行く前に兄に借りたカメラでした。旅行中の盗難保険に入っていた
ので、カメラ代を弁償してもらうにはどうすれば良いか、バッファローに着くまで考えました。
朝早くバスはバッファローに到着、どうやってポリスを呼んだかは記憶にありませんが片言の英語
でカメラを盗まれたことをポリスに説明しましたが、ポリスからは座席に置いた私が悪い、というよ
うなことを言われたと思います。
保険金を請求するためには、盗まれたことを証明できる何かをポリスに書いてもらう必要があると
思い、お願いして書いてもらいました。
日本に帰り、その証明書を持って保険会社に保険金支払いをお願いしたら、アッサリ支払ってもらえ
ました。もっと、あれこれ言われて、もらえないんではないかと心配していました。
「油断禁物」ですね。自分の荷物は肌身離さずが基本です。旅に慣れてきたときに自分の心にスキが
出て、痛い目に遭います。大きなケガをしなくて良かった、と考えましょう。
続く。
泊まり、今日も一日ワシントン見物です。
ワシントンDCは、アメリカの首都ですから博物館もいろいろあります。なかでもDCにきたら
ぜひ行ってみたいのが、スミソニアン博物館です。
スミソニアン博物館は、いろんな博物館の総称ですが、一番有名なのは航空宇宙博物館
です。
ここには、第二次世界大戦で活躍した日本のゼロ戦や月面に着陸したアポロなども展示
されています。
最近では、広島に原爆を落とした「エノラゲイ」を展示するかどうかが大きな話題となった
ところです。航空宇宙博物館を見るだけでも、結構時間がかかります。
この日は半日以上、スミソニアン博物館を見て回りました。
夜、ワシントンDCのバスディーポから、夜行バスで次の目的地であるニューヨーク州の
バッファローに向かいました。
バスは途中何度か休憩しながら目的地に向かいます。バスの出入口は前方にあり、この日
は一番後方の席に座っていました。
夜中、バスは短い休憩のため、ある町で停まりました。ほとんどの乗客が降りたあと私も
いったんバスを降りました。
この時バスには運転手以外誰もいなかったので、自分の座席にカメラを置いてバスを降りました。
一番後ろの席だし、早く戻ってくれば誰も私のカメラのことはわからない、と安心したのが不覚で
した。
バスの乗車時間になり、誰よりも早くバスに戻ったのに、座席においておいたカメラはどこかに
いってしまいました。
そのカメラは、アメリカ旅行に行く前に兄に借りたカメラでした。旅行中の盗難保険に入っていた
ので、カメラ代を弁償してもらうにはどうすれば良いか、バッファローに着くまで考えました。
朝早くバスはバッファローに到着、どうやってポリスを呼んだかは記憶にありませんが片言の英語
でカメラを盗まれたことをポリスに説明しましたが、ポリスからは座席に置いた私が悪い、というよ
うなことを言われたと思います。
保険金を請求するためには、盗まれたことを証明できる何かをポリスに書いてもらう必要があると
思い、お願いして書いてもらいました。
日本に帰り、その証明書を持って保険会社に保険金支払いをお願いしたら、アッサリ支払ってもらえ
ました。もっと、あれこれ言われて、もらえないんではないかと心配していました。
「油断禁物」ですね。自分の荷物は肌身離さずが基本です。旅に慣れてきたときに自分の心にスキが
出て、痛い目に遭います。大きなケガをしなくて良かった、と考えましょう。
続く。
2008年04月05日
アメリカ貧乏旅行12日目、ワシントンDC
フロリダ州オーランドからグレイハウンドバスで半日以上かけ、ようやくワシントンDCに
到着しました。
1981年2月26日です。この年の1月にロナルド・レーガン大統領が誕生したばかり、
政治の中心であるワシントンDCはレーガンへの期待が高まっていました。
ワシントンDCには、リンカーン記念館(リンカーン元大統領がイスに座っている像がある)、
ホワイトハウス、ワシントン記念塔などの観光名所が多くあり、その間には池や芝生を
しきつめた公園がありますので、徒歩で歩きまわることができます。
リンカーン記念館から少しあるけば、日本から送られた桜が植えてあるポトマック川が見
渡せます。
夕方、時間があったのでアメリカ歴史博物館に行きました。詳しくは覚えていませんが、
恐竜の化石や西部開拓時代の歴史について展示がされていたように思います。
この日は、ワシントンDCの市内にある古びたホテルで1泊しました。
旅行地図
続く
到着しました。
1981年2月26日です。この年の1月にロナルド・レーガン大統領が誕生したばかり、
政治の中心であるワシントンDCはレーガンへの期待が高まっていました。
ワシントンDCには、リンカーン記念館(リンカーン元大統領がイスに座っている像がある)、
ホワイトハウス、ワシントン記念塔などの観光名所が多くあり、その間には池や芝生を
しきつめた公園がありますので、徒歩で歩きまわることができます。
リンカーン記念館から少しあるけば、日本から送られた桜が植えてあるポトマック川が見
渡せます。
夕方、時間があったのでアメリカ歴史博物館に行きました。詳しくは覚えていませんが、
恐竜の化石や西部開拓時代の歴史について展示がされていたように思います。
この日は、ワシントンDCの市内にある古びたホテルで1泊しました。
旅行地図
続く
2008年04月04日
アメリカ貧乏旅行11日目、23時間バスでの出来事
フロリダ州オーランドのホテルを早朝にチェックアウトして、もう一度バスディーポに向かいました。
次の目的地は、アメリカの首都であるワシントンDCです。オーランドからワシントンDCへは
グレイハウンドバスで23時間かかります。つまり、丸一日バスにのっていなければ
なりません。
昨晩の出来事があって寝不足だった私は、早くバスにのりぐっすり眠りたいと思っていました。
午前中に出発するバスに予約を入れ、乗り込みました。オーランドからバスに乗り込むと
バスの中にはハイチから出稼ぎにきた家族を含め大勢の乗客がいました。
出稼ぎの家族(?)に15歳くらいの少年がいて、黄色人種が珍しいのか、さかんに私に話し
かけてきます。
23時間のバスの旅は、ずっと寝て行こうと思っていましたがおもわぬ英会話のレッスンが
できました。とはいえ、相手の英語もカタコト、こっちもぎこちない英語でしたので何パーセント
位伝わったのかわかりません。
彼らは、ハイチからフロリダについて、バスを使ってニューヨークやフィラデルフィアに向かう途中
だそうです。
ホテルのメイド、レストランの皿洗いなどの仕事につくということでした。メキシコも含め、このころ
中南米の国々は貧しく、つかまるのを覚悟で不法にアメリカに入国している人も大勢いました。
彼らが不法かどうか、それはわかりませんが・・。
長距離バスは2~3時間毎に短い休憩、朝昼夜には食事休憩があります。バスが止まった時に
ドライバーが何分間の休憩で何時に出発します、とアナウンスしますが、そのアナウンスを聴いて
いないと大変です。
前夜の寝不足もあって、夜はバスでぐっすり寝入っていました。ワシントンDCに着くのは、翌日の
午前中です。
夜が明けようとしている頃、眠っている私をハイチの青年がゆり起しました。バスは小さな停留所
にとまっていました。彼に誘われてバスを降りると、「お腹がすいたので、何か食べさせてほしい」と
お願いされました。こっちも大してお金を持っていないので、自動販売機でリンゴを一つ買って彼に
あげました。
このとき、事件が起こりました。後で考えると本当にぞっとする大変な出来事でした。
停留所の建物を出てバスに戻ろうとしたとき、視界には30メートル先に動き始めたバスが見えま
した。走ってバスを追いかけますが、バスはどんどんスピードをあげ広い駐車場から大きな通りに
でようとしています。
バスには、バックパック(中にはパスポートなど)を預けてあるし、さらに自分達がいるこの街が
いったいどこなのかさえ分からないありさまです。
「バスにおいていかれたらどうしよう」「何としてもバスを止めなくては」と考えながら必死で走り
ました。
バスとの距離は縮まるどころか、だんだん離れてゆきました。そして、バスは何もなかったかの
ように駐車場の出口を右折して大通りに出ていってしまいました。
「もうだめだ」と観念したその時、バスのはるか後方を走っていたタクシーがわれわれの姿を見つけ
てくれ、猛スピードでバスを追い越しバスを停車させてくれました。
「地獄で仏」とはこのようなことを指す言葉なんでしょう。
このタクシーのおかげで命拾いしました。われわれはタクシーの運転手さんにお礼を言い、バスに
乗り込みました。
このとき、頭の中がパニックになっていて、タクシーの運転手さんに十分なお礼を言えなかった
ことが大変残念でなりません。
探偵ナイトスクープにお願いして、このときのタクシー運転手さんを探してもらおうと何度も考え
ましたが探偵ナイトスクープの予算ではアメリカまで探しに行ってはくれないだろう、とあきらめ
ています。
続く
次の目的地は、アメリカの首都であるワシントンDCです。オーランドからワシントンDCへは
グレイハウンドバスで23時間かかります。つまり、丸一日バスにのっていなければ
なりません。
昨晩の出来事があって寝不足だった私は、早くバスにのりぐっすり眠りたいと思っていました。
午前中に出発するバスに予約を入れ、乗り込みました。オーランドからバスに乗り込むと
バスの中にはハイチから出稼ぎにきた家族を含め大勢の乗客がいました。
出稼ぎの家族(?)に15歳くらいの少年がいて、黄色人種が珍しいのか、さかんに私に話し
かけてきます。
23時間のバスの旅は、ずっと寝て行こうと思っていましたがおもわぬ英会話のレッスンが
できました。とはいえ、相手の英語もカタコト、こっちもぎこちない英語でしたので何パーセント
位伝わったのかわかりません。
彼らは、ハイチからフロリダについて、バスを使ってニューヨークやフィラデルフィアに向かう途中
だそうです。
ホテルのメイド、レストランの皿洗いなどの仕事につくということでした。メキシコも含め、このころ
中南米の国々は貧しく、つかまるのを覚悟で不法にアメリカに入国している人も大勢いました。
彼らが不法かどうか、それはわかりませんが・・。
長距離バスは2~3時間毎に短い休憩、朝昼夜には食事休憩があります。バスが止まった時に
ドライバーが何分間の休憩で何時に出発します、とアナウンスしますが、そのアナウンスを聴いて
いないと大変です。
前夜の寝不足もあって、夜はバスでぐっすり寝入っていました。ワシントンDCに着くのは、翌日の
午前中です。
夜が明けようとしている頃、眠っている私をハイチの青年がゆり起しました。バスは小さな停留所
にとまっていました。彼に誘われてバスを降りると、「お腹がすいたので、何か食べさせてほしい」と
お願いされました。こっちも大してお金を持っていないので、自動販売機でリンゴを一つ買って彼に
あげました。
このとき、事件が起こりました。後で考えると本当にぞっとする大変な出来事でした。
停留所の建物を出てバスに戻ろうとしたとき、視界には30メートル先に動き始めたバスが見えま
した。走ってバスを追いかけますが、バスはどんどんスピードをあげ広い駐車場から大きな通りに
でようとしています。
バスには、バックパック(中にはパスポートなど)を預けてあるし、さらに自分達がいるこの街が
いったいどこなのかさえ分からないありさまです。
「バスにおいていかれたらどうしよう」「何としてもバスを止めなくては」と考えながら必死で走り
ました。
バスとの距離は縮まるどころか、だんだん離れてゆきました。そして、バスは何もなかったかの
ように駐車場の出口を右折して大通りに出ていってしまいました。
「もうだめだ」と観念したその時、バスのはるか後方を走っていたタクシーがわれわれの姿を見つけ
てくれ、猛スピードでバスを追い越しバスを停車させてくれました。
「地獄で仏」とはこのようなことを指す言葉なんでしょう。
このタクシーのおかげで命拾いしました。われわれはタクシーの運転手さんにお礼を言い、バスに
乗り込みました。
このとき、頭の中がパニックになっていて、タクシーの運転手さんに十分なお礼を言えなかった
ことが大変残念でなりません。
探偵ナイトスクープにお願いして、このときのタクシー運転手さんを探してもらおうと何度も考え
ましたが探偵ナイトスクープの予算ではアメリカまで探しに行ってはくれないだろう、とあきらめ
ています。
続く
2008年04月02日
アメリカ貧乏旅行10日目、恐怖のホテルで
1981年2月24日、フロリダ州オーランドで予約した宿屋は1泊4ドルという格安料金。
ディズニーワールドで楽しいひと時を過ごした後、バスディーポで荷物を受け取り宿屋に
向かった。シングルルームではなく、ひとつの部屋をシェアするんだそうです。YMCAの
ような宿泊施設だと思っていました。
宿屋の1階で宿泊代金4ドルを払い2階の部屋に案内されました。階段を上って2階に
ゆくとまっすぐな廊下になっており、正面の壁にはTVが1台、廊下の椅子に座り昼間か
らビールを飲んでじっと静かにTVを見ている宿泊客(らしい人)が2~3人。
こちらを一瞥しただけで、また視線をTVにむけた白人は、野球帽をかぶり目の下には
大きな隈があり、なにやら不健康な感じです。
廊下の隣にある部屋に案内されました。大きな部屋には2段ベッドが4つあります。8人
部屋ということらしいです。入り口近くの下のベッドが私のベッドとなりました。
不思議なのは、部屋の真ん中にバスタブが1つ置かれていることです。目隠しのカーテン
はありません。う~ん、どうやって風呂に入るんだろう。
チェックインしてしまったものの、こんな危険そうなところにいつまでもいるわけには行きま
せん。パックパックに入っている貴重品をDパックに詰め込み、散歩に出るような感じで
宿屋を出ました。
夜になっても、ホテルに戻る勇気はなくバスディーポの長いすに座り本を読みながら時間
がたつのを待ちました。
深夜2時、意を決して宿屋に戻りました。階段を上がり2階の部屋へ。何人宿泊している
か分かりませんが、部屋は真っ暗で宿泊者の寝息だけが聞こえます。
自分のベッドに横になり、貴重品をおなかにかかえて朝が来るのを待ちました。もちろん
部屋の中央に置かれたバスタブで風呂に入ることなど、ありえません。
ベッドでうつらうつらして朝5時、ようやく空が明るくなってきました。荷物を全部かかえて
宿屋をチェックアウトしました。
睡眠不足でアメリカ旅行11日めの朝を迎えました。
ディズニーワールドで楽しいひと時を過ごした後、バスディーポで荷物を受け取り宿屋に
向かった。シングルルームではなく、ひとつの部屋をシェアするんだそうです。YMCAの
ような宿泊施設だと思っていました。
宿屋の1階で宿泊代金4ドルを払い2階の部屋に案内されました。階段を上って2階に
ゆくとまっすぐな廊下になっており、正面の壁にはTVが1台、廊下の椅子に座り昼間か
らビールを飲んでじっと静かにTVを見ている宿泊客(らしい人)が2~3人。
こちらを一瞥しただけで、また視線をTVにむけた白人は、野球帽をかぶり目の下には
大きな隈があり、なにやら不健康な感じです。
廊下の隣にある部屋に案内されました。大きな部屋には2段ベッドが4つあります。8人
部屋ということらしいです。入り口近くの下のベッドが私のベッドとなりました。
不思議なのは、部屋の真ん中にバスタブが1つ置かれていることです。目隠しのカーテン
はありません。う~ん、どうやって風呂に入るんだろう。
チェックインしてしまったものの、こんな危険そうなところにいつまでもいるわけには行きま
せん。パックパックに入っている貴重品をDパックに詰め込み、散歩に出るような感じで
宿屋を出ました。
夜になっても、ホテルに戻る勇気はなくバスディーポの長いすに座り本を読みながら時間
がたつのを待ちました。
深夜2時、意を決して宿屋に戻りました。階段を上がり2階の部屋へ。何人宿泊している
か分かりませんが、部屋は真っ暗で宿泊者の寝息だけが聞こえます。
自分のベッドに横になり、貴重品をおなかにかかえて朝が来るのを待ちました。もちろん
部屋の中央に置かれたバスタブで風呂に入ることなど、ありえません。
ベッドでうつらうつらして朝5時、ようやく空が明るくなってきました。荷物を全部かかえて
宿屋をチェックアウトしました。
睡眠不足でアメリカ旅行11日めの朝を迎えました。
2008年04月02日
アメリカ貧乏旅行9日~10日目、ニューオリンズからオーランド
1981年2月22日の夜はニューオリンズでほろ酔い、ちょっと楽しい気分を味わいました。
つい10日前、渡米前には考えられなかったほどアメリカに馴染んでいる自分がここにいた。
酒場で知り合ったアメリカ人のグループとバーボン通りをわいわい騒ぎながら大笑いし、
そこいらの家の2階バルコニーで夜空を眺めている女の子にエッチな言葉をかけ、ころげ
まわって笑った。まるでアメリカの青春映画にあるひとコマのようだった。
23日の朝(9日目)、ニューオリンズのバーボン通りは昨晩のよっぱらい達が残していったごみが
そこらじゅうに散乱し、お祭りの後のさびしさでした。
午前中は、ニューオリンズの市内を歩いて回り、午後グレイハウンドのバスにのってフロリダ州
のオーランドに向けて出発しました。
24日の朝(10日目)、バスはフロリダ州オーランドに到着。西海岸のサンフランシスコから
アメリカの南はしをぐるっとバスで回り、とうとう南東のかどであるフロリダ半島につきました。
2月だというのに、フロリダは夏のような暑さです。今日の目当ては、ここオーランドにあるディズニー
ワールド。西海岸にあるディズニーランドの数倍の広さがあるディズニーワールドはこの旅でぜひ
行きたいと思っていたところのひとつです。(まだ東京ディズニーランドは開業していないときな
ので、ディズニーワールドやユニバーサルスタジオはアメリカ映画が体験できる素敵なスポット
でした)
大きな荷物はバスディーポに預け、今日のホテルを探したら、なんと1泊4ドルという格安料金で
泊まれる宿屋がみつかり、とりあえず予約。ホテル代も含め1日30ドル以内で生活しなくちゃ
いけないので、ホテル代が4ドルというのはうれしい。
オーランドの中心からバスでディズニーワールドのエントランスへ。バスを降りて入場券を買うと
そこは船着場、蒸気船にのってディズニーワールドの入り口まで連れていってくれるそうだ。
日本の遊園地とはまるでスケールが違う。やっぱりアメリカはすごい。
ディズニーランドは日本人観光客が多いと聞いていたが、ディズニーワールドでは日本人らしき
人はほとんど見かけませんでした。
ウォータースライダーなどいくつかの乗り物にのり、おばけ屋敷に入りました。アメリカ人観光客が
なぜ怖がっているのか、私には全然理解できませんでした。日本のお化け屋敷をアメリカに作った
らはやるだろうなぁ、となぜかビジネスのことを考えたり・・・・。アメリカンドリームになるかな?
午後、日が高いうちにディズニーワールドからオーランド市内に戻り、ホテルにチェックインすること
にしました。
続く
つい10日前、渡米前には考えられなかったほどアメリカに馴染んでいる自分がここにいた。
酒場で知り合ったアメリカ人のグループとバーボン通りをわいわい騒ぎながら大笑いし、
そこいらの家の2階バルコニーで夜空を眺めている女の子にエッチな言葉をかけ、ころげ
まわって笑った。まるでアメリカの青春映画にあるひとコマのようだった。
23日の朝(9日目)、ニューオリンズのバーボン通りは昨晩のよっぱらい達が残していったごみが
そこらじゅうに散乱し、お祭りの後のさびしさでした。
午前中は、ニューオリンズの市内を歩いて回り、午後グレイハウンドのバスにのってフロリダ州
のオーランドに向けて出発しました。
24日の朝(10日目)、バスはフロリダ州オーランドに到着。西海岸のサンフランシスコから
アメリカの南はしをぐるっとバスで回り、とうとう南東のかどであるフロリダ半島につきました。
2月だというのに、フロリダは夏のような暑さです。今日の目当ては、ここオーランドにあるディズニー
ワールド。西海岸にあるディズニーランドの数倍の広さがあるディズニーワールドはこの旅でぜひ
行きたいと思っていたところのひとつです。(まだ東京ディズニーランドは開業していないときな
ので、ディズニーワールドやユニバーサルスタジオはアメリカ映画が体験できる素敵なスポット
でした)
大きな荷物はバスディーポに預け、今日のホテルを探したら、なんと1泊4ドルという格安料金で
泊まれる宿屋がみつかり、とりあえず予約。ホテル代も含め1日30ドル以内で生活しなくちゃ
いけないので、ホテル代が4ドルというのはうれしい。
オーランドの中心からバスでディズニーワールドのエントランスへ。バスを降りて入場券を買うと
そこは船着場、蒸気船にのってディズニーワールドの入り口まで連れていってくれるそうだ。
日本の遊園地とはまるでスケールが違う。やっぱりアメリカはすごい。
ディズニーランドは日本人観光客が多いと聞いていたが、ディズニーワールドでは日本人らしき
人はほとんど見かけませんでした。
ウォータースライダーなどいくつかの乗り物にのり、おばけ屋敷に入りました。アメリカ人観光客が
なぜ怖がっているのか、私には全然理解できませんでした。日本のお化け屋敷をアメリカに作った
らはやるだろうなぁ、となぜかビジネスのことを考えたり・・・・。アメリカンドリームになるかな?
午後、日が高いうちにディズニーワールドからオーランド市内に戻り、ホテルにチェックインすること
にしました。
続く